2011年10月29日土曜日

日米戦争と戦後日本 


著者の五百籏頭真 (いおきべ まこと) 氏は、歴史学者です。
この方は現在、防衛大学校長であり、震災復興会議の議長でもあります。
つい最近文化功労章を頂いたそうです。
氏の政治的な主張や個人的なコメントには、賛同できないところがありますが、歴史学者の立場から書いたこの本は、日本がアメリカとの戦争に入って行った経緯と、終戦を迎える時の日米双方の思惑などが、詳しく書かれていて、とても勉強になりました。

驚いたのは、戦争を終結させるためにアメリカ国内ではさまざまな意見があり、その経緯のなかで対日強硬派の意見が、多数派であるにもかかわらずトルーマン大統領によって握りつぶされたという事実です。

原爆投下を命じたトルーマン大統領といえば、冷酷なイメージがありました。
しかしこの本によれば、トルーマンは戦後の日本統治について、なるべく民主的な方法を取るように指示し、民族の奴隷化のような高圧的な統治には反対だったそうです。

とは言っても、トルーマンは、前のカリスマ的なルーズベルト大統領が死去して、自動的に副大統領から大統領になったとき、外交実績は全くありませんでした。
そこでトルーマンが頼りにしたのが、故ルーズベルト大統領のブレーンだった、スティムソン陸軍長官です。 
スティムソン陸軍長官は、知日家で、もっとも犠牲の少ない方法で戦争を終わらせるためには、日本を徹底的に叩いて壊滅させることではない、とトルーマンに説きました。

「硫黄島からの手紙」、という映画が何年か前にありましたが、映画の通り壮絶な戦いだったそうです。
アメリカ軍は、簡単に占領できると見ていましたが、払った犠牲は日本軍の死傷者とほぼ同じだったといいます。
本土に近付くにつれ、日本軍は徹底抗戦し、アメリカ軍の戦死者はどんどん増えていきます。
このまま日本列島を占領するまで戦い続けると、アメリカの若者が何万~何百万犠牲になるか。
こういった予測は、マッカーサー将軍をはじめ、南方で戦っているアメリカ軍司令官たちの間で現実味をおびてきたのでしょう。

当時、アメリカ軍は、日本本土の上陸作戦を固めていました。
南九州から上陸する作戦と、関東の九十九里浜と湘南海岸から上陸する作戦です。
この2つの作戦は、戦争が昭和20年の秋まで続いていれば実行される予定でした。
しかしそのときは、北海道からソ連が上陸する可能性もありました。
実際に領土を占領するとなると、膨大な人的資源が必要です。 おそらくドイツのように、日本は数カ国に分割されていたでしょう。


スティムソン陸軍長官は「ポツダム宣言」作成にもたずさわります。
ここでは、日本を無条件降伏ではなく、天皇制を維持したままの降伏、を日本に迫ります。
占領政策は、トップに連合軍の司令部を置き、その下に従属する形で天皇を置き、天皇の権威と力を利用して政府・国民を動かす、というものでした。

当時アメリカ世論と議会は、天皇を排除する形の占領政策を支持していました。
しかし、スティムソンはじめ国務省の実力者は、偶然にも日本をよく理解した人間が集まっていました。 天皇を排除してしまっては、日本という国は瓦解して、占領政策は失敗する。 最悪の場合、ソ連が手を伸ばし、共産主義国家ができてしまう、と考えていました。

スティムソン陸軍長官は、同時に原爆開発の総責任者でした。
彼は、軍が主張する、京都を第一投下候補にすることに反対し、大統領も彼に同意しました。
原爆が落とされる前に、何とか降伏して欲しい、と思っていたかどうかはわかりませんが、昭和20年の7月28日、日本はポツダム宣言を「黙殺=reject」します。
実際には ignore it entirely と、訳されたそうです。

日本では当時の阿南陸軍大臣は、天皇が占領軍に従属することに大反対でした。 
東郷外務大臣は占領政策は全土にわたって行われるわけではなく、ドイツのものより緩やかで、この機会を逃したら日本の将来はないと、主張しました。
明治憲法の下では、内閣は全員一致でないと何も決まらない仕組みで、総理大臣は普通の一大臣であり、閣僚の誰かが強硬に反対したら総辞職しか手はなく、結局、時間だけが過ぎて行きました。

その2週間後の8月6日、広島に原爆が投下されます。

アメリカも、戦争を速やかに終結させるためには手段を選びませんでした。

日本では、最高戦争指導会議が9日になってやっと開かれます。
時すでに、ソ連が日本に宣戦布告していました。
会議は、戦争犯罪人がどうさばかれるのか、ポツダム宣言にはっきり明記されていないことが焦点になりました。 
原爆についても、アメリカが持っている爆弾はこれだけではないか、という希望的観測がありました。
しかし会議の最中、長崎に2つめが投下されたとの知らせが入ったそうです。

私は以前、NHKの特集で、戦争終結を決断したこの会議について、知っていました。
この後、何も決められない内閣は、天皇の判断を仰ぐため、御前会議を開きます。

ここでも議論は分かれ、最終的に、天皇の御聖断を仰ぐことになります。
天皇は、ポツダム宣言を受け入れることに賛成の意を表します。 
「これ以上戦争を続けていても勝つ見込みは全くない。 無辜の国民に苦悩を増し、ついには民族絶滅となる。 自分はどうなろうとも、万民の生命を助けたい」

こうして日本は、ポツダム宣言を受け入れ、降伏したのでした。


この本では、スティムソン陸軍長官と国務省のブレーンが、日本という敵国を冷静な目で分析し、アメリカの国益を最大限にする戦争終結方法を模索していたことが、書かれていました。
早く戦争を終わらせたい、というアメリカの国益が、兵器として原子爆弾を使用してしまいました。

明治憲法が内閣の全員一致ではなく多数決で物事を決められる制度であったら、
一人の閣僚が反対しても内閣総理大臣にその閣僚の罷免権があったら、
天皇が重要な政治決定にもっとかかわることができたら、
日本はもっと早く戦争を終わらせていたかもしれません。

私はアメリカの、スミソニアン航空博物館別館で、広島に原爆を落としたB29エノラ・ゲイを見てきたことがあります。 
そこにはちゃんと、原爆投下は戦争を早く終結させた、と書かれていましたし、学芸員もそのように説明してくれました。
私は日本人として、感情的に、原爆投下を正当化する意見は嫌いですが、もし第3国の歴史学者だったとしたら、原爆がなかったら戦争は秋、冬、ひょっとすると翌年まで続き、本土決戦で多くの国民が殺され、完全な無条件降伏を余儀なくされ、国土は分割され、今のような経済的繁栄は築けなかったであろう、と思うかもしれません。

ですから、原爆投下を正当化するアメリカ人の理屈も、まっこうから否定はしませんでした。