2011年12月20日火曜日

Twelve Y.O.




福井 晴敏氏の本の中では、これが一番好きです。
亡国のイージス 」、「終戦のローレライ」は映画にもなりましたが、これは映画化は無理でしょう。
私は10年くらい前に読んだのですが、そのスケールの大きさに驚いた。

あらすじはこちらに素晴らしいサイト を見つけたのでどうぞ。

テーマは深い。 
自立できない日本。 アメリカに、全て安全保障をまかせっきりにしている、平和ボケの日本。 
そんな中、アメリカ国防総省に本気で戦いを挑んだ、ひとりの日本人。
最強のコンピューターウイルスと、最強のテロリスト。

テロリストの秘密兵器が、超人的な能力を持った少女というのも、「終戦のローレライ」に通じるところがありますね。
その少女の戦うシーンがとても印象的でした。 
特に閃光弾を使って数十人のアメリカ兵をやっつけるところとか。
高速道路にダンプを止めて荷台の土砂をばらまいて、敵の動きを止めるところとか。

ただ、途中で一部、話が読めてしまったのでちょっと残念。
ブッシュ大統領(父の方)が、第二次大戦中乗っていた戦闘機が日本軍機に撃墜され、九死に一生を得たこと、後にCIA長官を務めたこと、をちょうどその前に読んだ本で知っていたので、なんとなく話の筋が読めてしまった・・・。

でも、とても楽しめる小説です。 読み後味、すっきりします。
第44回江戸川乱歩賞受賞、だそうです。


2011年12月7日水曜日

死亡フラグが立ちました


出張中の本屋で、表紙が目に付いたのでついつい買いました。
ちょっとふざけたタイトル。
なんとなく軽く読めそうなミステリーかな、って思っていたら想像通り、テンポが良く読み進めました。

「フラグが立つ」とはIT用語?で、たくさんのデータの中から後でわかるように目印を付けること。
何かのエラーとか、条件に当てはまるものを、たくさんの中から「これだ!」ってわかるように。

この話は、現代に生きる死神、を追う若い雑誌記者と、雑誌社の隣に事務所を構えるあっちの世界のアニキが主人公。

アニキの親分が、部屋でバナナの皮で滑って転んで、床に落ちていた鉄アレイに頭をぶつけて即死する。 
偶然にしては出来すぎた事故。 誰かが仕組んだ罠か?

親分の死に方に納得がいかないアニキは、若造記者に、「死神」という殺し屋がやったに違いないと言う。
特ダネに飢えていた記者は、とびついて取材をしていく。
だんだん死神の存在を信じ始めた若造記者、でも謎は深まるばかり。

個人的には、ツンデレ風の記者の女上司が好き。
話全体のいいアクセントになっている。

話自体はミステリー小説だけど、少々盛り上がりに欠けるか。
最後が若干、好き嫌いが分かれるかも。
でも、新幹線の中で読むとか、暇つぶしに読むのにはいいでしょう。

2011年11月22日火曜日

高架下建築


変わった写真集です。
線路の下にまで建築するなんて、狭い日本ならではでしょうかね。

私が個人的に好きな高架下は、
  1. 神田近辺のレンガでつくられた倉庫や店
  2. 新橋駅の飲み屋街
  3. 神戸・三宮から元町へかけての商店街
です。

近所にも高架下はありますが、自転車置き場だったり、駐車場だったり、電車の車庫だったりと、いまいちオツじゃない。

住んだことはないけれど、高架下にも家は建つんですね。
飲み屋ならいいかも。

こういう写真集で、ほかにも好きなのは、
私自身は、工場に「萌え」は感じませんけど、「すごいなあこの建造物は!」 って思うことはありますね。

特に、火力発電所 は好きです。 
あと、石油精製所、製鉄工場 も、実際見たら圧倒されますよ。

炎があるところが好きなんでしょうかね。

2011年11月14日月曜日

醜い日本人 日本の沖縄意識


(この本はAmazonでは無いので図書館で借りるか古本を探すしかないようです)

著者の大田昌秀氏は、ご存じ、1990年-98年まで沖縄県知事を務め、2001年から6年間は社民党参議院議員でした。
この本の1-3章が書かれたのは、1969年。 まだ沖縄がアメリカの占領下にあった時代です。 

大田氏は戦争中、学徒隊の鉄血勤皇隊という部隊に召集されて、九死に一生を得た経験があり、特に沖縄戦の悲惨さを身を持って知っている生き証人です。
私たちには想像するしかありませんが、沖縄の地上戦は「史上最も残酷な戦い」で、住民の3分の1近くが犠牲になりました。

住民は、働き手の男たちはほぼ兵士として駆り出され、残った者は頼りにしていた本土からの軍隊から捨てられ、塹壕からは追い出され、自決(自殺)を強いられ。
米軍の占領後は、投降を求める米軍の手助けをするとスパイの容疑をかけられて銃殺、玉砕を潔しとする軍人には生き残るという選択肢は無かったといいます。

そこで戦う兵士たちも、本土から捨てられたと感じていたのでしょうか。
地理的に、どこにも逃げ道が無いという絶望的な状況下、兵士も住民も、死ぬまで戦っていたのです。

戦争が終わり、日本はアメリカの占領下におかれます。
GHQによる改革が進む中、1951年、サンフランシスコ講和条約で、日本は主権を回復します。
翌52年4月28日に講和条約は発効しますが、この日を沖縄では「屈辱の日」としたそうです。
なぜか。

この条約では、日本政府は沖縄を日本の施政下から外すという決断を下したからです。
つまり、「日本の独立のためには沖縄抜きでも仕方が無い」ということでした。
もちろんこれにはアメリカの強い意向があったからでした。
アメリカは、冷戦を本格的に意識し始め、沖縄に引き続き強力な軍事力を維持したかったのです。

アメリカからは、高等弁務官という軍人出身の行政長が任命され、高等弁務官は実質的に沖縄の最高権力者でした。
彼は必要とあらば、沖縄の全ての立法案を拒否し、全ての立法を制定後、45日以内にこれを無効にできました。 またいかなる公務員をも罷免する権限がありました。 
間接的に、アメリカに都合の悪い人物を除去することもできたのです。
高等弁務官はだいたい任期制で、通常、アメリカ本国の意向に沿った政策をしていたそうです。
そこには、強制土地収用、基地の増設、核ミサイルの持ち込み、など負の政策から、公衆衛生、大学の制定、などそれほど負ではない政策まで含まれました。

当時、沖縄は貧困にあえいでいました。 産業らしいものはなく、地上戦で全てが失われたからです。 しかし根底には支配者と被支配者の差別の問題、本土の人間と沖縄の人間の差別の問題があったと著者は指摘します。
アメリカ軍は最初、基地の沖縄人労働者に対し、その日を暮らすのもやっとの賃金しか払いませんでした。 本土から来た土建業者が、米軍基地の仕事を請け負うと、ピンはねします。
基地労働者の不満は、政党を生み、労働争議に発展しますが、これが社会主義的、共産主義的なものになるにつれ、米軍政府の弾圧を受けます。
当時、自由民主主義のリーダーを標榜していたアメリカが、極東の小さな島で、基本的人権をさえ蹂躙していたのです。 これを批判したのは他でもない、アメリカのジャーナリストだったそうです。

さて、田中角栄という人をご存じでしょうか。
彼は、1962年、自民党政調会長だったとき、来日したロバート・ケネディ司法長官(ジョン・F・ケネディ大統領の弟)に対し、沖縄の返還に向けてこう言ったそうです。
「日本の国民は、沖縄の施政権返還を希望しているが、これは憲法問題と安保条約が密接な関連をもっている。米国が施政権を返還するためには、憲法を改正し、再軍備をして日米共同責任の防衛体制ができていなければならない。したがって施政権返還のひとつの方法として、また中ソへの巻き返しの意味からも、米国から(日本政府に)憲法を改正して再軍備をすすめるよう求めてはどうか」

これは何を意味するかというと、当時、日本は高度成長期。 アメリカとの安保条約の下、繁栄をきわめていました。 
そんな中、早く沖縄を日本に返還したいが、今ある米軍基地をそのまま受け入れたのでは、戦争放棄を謳った憲法に触れる恐れがあります。 ましてや当時、沖縄のあちこちに核ミサイルが装備されている状態です。 ベトナム戦争まっただ中のアメリカが、沖縄の基地を手放すはずは無いというのが一般的な意見でした。
そうなると、日本の憲法を改正し、再軍備ができるように、日本を作りかえることで、沖縄返還を実現させようという考えがあって自然かもしれません。
しかし国内から憲法改正を言いだすのは無理なので、アメリカの外圧を利用したいというのが、当時の自民党首脳の考えだったのでしょう。
結局、アメリカ政府はその手には乗りませんでしたが。


今、現在も、私たちは同じような状況にいると言えます。
つまり、沖縄に過大な負担をさせて、その犠牲の上に、本土の安全があるということ。

日米安全保障条約も、日米地位協定も、沖縄に基地があることの前提に引用されますが、このいずれの条約、協定も、「基地は沖縄に置く」とは書かれていません。
沖縄である必要は無い、と沖縄のひとが主張されるのはもっともだと思います。

現実問題、本土で新たに基地を受け入れる自治体は無いでしょう。
沖縄もしかり。
普天間の移転は無能首相のせいで取り返しのつかない大問題になってしまいましたが、これから先、沖縄はいつまで本土防衛の犠牲になり続けるのか、深く考えさせる本でした。

普天間飛行場 上空写真

2011年11月5日土曜日

ワイルド・ソウル


この小説は、お勧めです。
ハードボイルド小説、のジャンルになるんでしょうが、ストーリーの背景は実話に基づいています。

戦後、日本政府は、貧しい農村の人々を対象に、南米の国々への移民政策を進めた時期がありました。 「日本にいるよりも稼げる、広大な土地で成功して家族に恩返ししてみないか」
そういう甘い言葉と、日本政府が奨励しているのだから大丈夫、という気持で、数万人にも及ぶ日本人が、地球の反対側の見知らぬ国へ送られていったのです。

しかし、いざ到着してみると騙されたことに気が付きます。
ジャングルの奥深くへ連れて行かれ、用意されるはずの土地はまだ開墾されてなく、飢餓と風土病が移民たちを襲います。
それでも皆で協力して畑を耕し、作物を作りますが、雨期の嵐で全て流されたりして全滅。
日本政府の役人たちは彼らを助けようとはせず、逆にジャングルの中に棄てることでこの移民政策の失敗を隠そうとします。

と、ここまでは真実です。 
私もこの本を読むまで、そんな恐ろしい事実が存在していたことを知りませんでした。
しかし、何年か前、ドミニカ移民の裁判がニュースになっていたことを思い出しました。
ドミニカ共和国の日本人移民たちの運命はもっと悲惨だったそうです。
奴隷同然のような生活を余儀なくされていたそうです。

さて、ワイルド・ソウルの話に戻ります。

上巻ではこのような、戦後ブラジル移民の苛酷な運命を中心に話が進み、ちょっと思い気持になります。
下巻では、この移民の生き残り、当時子供だった男たちが中心になって、日本で外務省や当時の役人たちに復讐をする物語になります。
テレビ局の女子アナと移民の二世(これがスケベ)の掛け合いが、暗い雰囲気を明るくしています。

復讐というと怖いイメージですが、残酷なシーンは出てきません。
これくらいの復讐なら、あってもいいかな、と(実際やったら即逮捕ですが)思えてくる内容です。

全体的に、この小説は男性向きです。 女性は苦手かもしれません。
でも一度読むと、アマゾンのシーンなどが脳裏に焼き付いて離れなくなるでしょう。
インパクトのある小説です。

2011年10月29日土曜日

日米戦争と戦後日本 


著者の五百籏頭真 (いおきべ まこと) 氏は、歴史学者です。
この方は現在、防衛大学校長であり、震災復興会議の議長でもあります。
つい最近文化功労章を頂いたそうです。
氏の政治的な主張や個人的なコメントには、賛同できないところがありますが、歴史学者の立場から書いたこの本は、日本がアメリカとの戦争に入って行った経緯と、終戦を迎える時の日米双方の思惑などが、詳しく書かれていて、とても勉強になりました。

驚いたのは、戦争を終結させるためにアメリカ国内ではさまざまな意見があり、その経緯のなかで対日強硬派の意見が、多数派であるにもかかわらずトルーマン大統領によって握りつぶされたという事実です。

原爆投下を命じたトルーマン大統領といえば、冷酷なイメージがありました。
しかしこの本によれば、トルーマンは戦後の日本統治について、なるべく民主的な方法を取るように指示し、民族の奴隷化のような高圧的な統治には反対だったそうです。

とは言っても、トルーマンは、前のカリスマ的なルーズベルト大統領が死去して、自動的に副大統領から大統領になったとき、外交実績は全くありませんでした。
そこでトルーマンが頼りにしたのが、故ルーズベルト大統領のブレーンだった、スティムソン陸軍長官です。 
スティムソン陸軍長官は、知日家で、もっとも犠牲の少ない方法で戦争を終わらせるためには、日本を徹底的に叩いて壊滅させることではない、とトルーマンに説きました。

「硫黄島からの手紙」、という映画が何年か前にありましたが、映画の通り壮絶な戦いだったそうです。
アメリカ軍は、簡単に占領できると見ていましたが、払った犠牲は日本軍の死傷者とほぼ同じだったといいます。
本土に近付くにつれ、日本軍は徹底抗戦し、アメリカ軍の戦死者はどんどん増えていきます。
このまま日本列島を占領するまで戦い続けると、アメリカの若者が何万~何百万犠牲になるか。
こういった予測は、マッカーサー将軍をはじめ、南方で戦っているアメリカ軍司令官たちの間で現実味をおびてきたのでしょう。

当時、アメリカ軍は、日本本土の上陸作戦を固めていました。
南九州から上陸する作戦と、関東の九十九里浜と湘南海岸から上陸する作戦です。
この2つの作戦は、戦争が昭和20年の秋まで続いていれば実行される予定でした。
しかしそのときは、北海道からソ連が上陸する可能性もありました。
実際に領土を占領するとなると、膨大な人的資源が必要です。 おそらくドイツのように、日本は数カ国に分割されていたでしょう。


スティムソン陸軍長官は「ポツダム宣言」作成にもたずさわります。
ここでは、日本を無条件降伏ではなく、天皇制を維持したままの降伏、を日本に迫ります。
占領政策は、トップに連合軍の司令部を置き、その下に従属する形で天皇を置き、天皇の権威と力を利用して政府・国民を動かす、というものでした。

当時アメリカ世論と議会は、天皇を排除する形の占領政策を支持していました。
しかし、スティムソンはじめ国務省の実力者は、偶然にも日本をよく理解した人間が集まっていました。 天皇を排除してしまっては、日本という国は瓦解して、占領政策は失敗する。 最悪の場合、ソ連が手を伸ばし、共産主義国家ができてしまう、と考えていました。

スティムソン陸軍長官は、同時に原爆開発の総責任者でした。
彼は、軍が主張する、京都を第一投下候補にすることに反対し、大統領も彼に同意しました。
原爆が落とされる前に、何とか降伏して欲しい、と思っていたかどうかはわかりませんが、昭和20年の7月28日、日本はポツダム宣言を「黙殺=reject」します。
実際には ignore it entirely と、訳されたそうです。

日本では当時の阿南陸軍大臣は、天皇が占領軍に従属することに大反対でした。 
東郷外務大臣は占領政策は全土にわたって行われるわけではなく、ドイツのものより緩やかで、この機会を逃したら日本の将来はないと、主張しました。
明治憲法の下では、内閣は全員一致でないと何も決まらない仕組みで、総理大臣は普通の一大臣であり、閣僚の誰かが強硬に反対したら総辞職しか手はなく、結局、時間だけが過ぎて行きました。

その2週間後の8月6日、広島に原爆が投下されます。

アメリカも、戦争を速やかに終結させるためには手段を選びませんでした。

日本では、最高戦争指導会議が9日になってやっと開かれます。
時すでに、ソ連が日本に宣戦布告していました。
会議は、戦争犯罪人がどうさばかれるのか、ポツダム宣言にはっきり明記されていないことが焦点になりました。 
原爆についても、アメリカが持っている爆弾はこれだけではないか、という希望的観測がありました。
しかし会議の最中、長崎に2つめが投下されたとの知らせが入ったそうです。

私は以前、NHKの特集で、戦争終結を決断したこの会議について、知っていました。
この後、何も決められない内閣は、天皇の判断を仰ぐため、御前会議を開きます。

ここでも議論は分かれ、最終的に、天皇の御聖断を仰ぐことになります。
天皇は、ポツダム宣言を受け入れることに賛成の意を表します。 
「これ以上戦争を続けていても勝つ見込みは全くない。 無辜の国民に苦悩を増し、ついには民族絶滅となる。 自分はどうなろうとも、万民の生命を助けたい」

こうして日本は、ポツダム宣言を受け入れ、降伏したのでした。


この本では、スティムソン陸軍長官と国務省のブレーンが、日本という敵国を冷静な目で分析し、アメリカの国益を最大限にする戦争終結方法を模索していたことが、書かれていました。
早く戦争を終わらせたい、というアメリカの国益が、兵器として原子爆弾を使用してしまいました。

明治憲法が内閣の全員一致ではなく多数決で物事を決められる制度であったら、
一人の閣僚が反対しても内閣総理大臣にその閣僚の罷免権があったら、
天皇が重要な政治決定にもっとかかわることができたら、
日本はもっと早く戦争を終わらせていたかもしれません。

私はアメリカの、スミソニアン航空博物館別館で、広島に原爆を落としたB29エノラ・ゲイを見てきたことがあります。 
そこにはちゃんと、原爆投下は戦争を早く終結させた、と書かれていましたし、学芸員もそのように説明してくれました。
私は日本人として、感情的に、原爆投下を正当化する意見は嫌いですが、もし第3国の歴史学者だったとしたら、原爆がなかったら戦争は秋、冬、ひょっとすると翌年まで続き、本土決戦で多くの国民が殺され、完全な無条件降伏を余儀なくされ、国土は分割され、今のような経済的繁栄は築けなかったであろう、と思うかもしれません。

ですから、原爆投下を正当化するアメリカ人の理屈も、まっこうから否定はしませんでした。